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自信があって自信がなかったデビューのころ
ーーーシングル『彼女』でデビューしたのは1996年9月21日。初めて洋平くんに取材をしたのは渋谷のカフェ・ドゥ マゴ パリでした。当時、まだ19歳でしたね。
そうでしたね。来月はデビュー18周年で来年は上京20年。最近、よく振り返るんですけど、よく生きてたな、と思います。
ーーーそれはどういうこと?
来年、金沢まで新幹線がつながりますけど、その時は金沢から〈かがやき〉という特急に乗って、長岡で新幹線に乗り換えて来たんですよね。片道切符で金沢を出て来た18歳の時に想像していた未来は多分24歳くらいまで。そこからもう14年ですからね。20代は精神的にとくにきつかったから、よく生きてたなと思うし、よく歌ってるな、と思う。なんか、おもしろいなあと思って。
ーーーなぜ24歳までだったんですか。
そんなに長生きする気が、なかったんだと思うんですよね。10代ならではの短絡的さだったんでしょうけど、流れ星みたいなのがカッコいいと思っていたし、それくらいしかエネルギーが続かないだろうな、と想像してたんだと思います。
ーーーその24歳までに、自分はどうなると想像していたんですか。
成功して、ロックスターになってるだろう、と(笑)。10 代の頃は、願ったことが全てうまくいってたので、調子に乗ってたっていうのもあるんですけどね(苦笑)。ちょっと端折りますけど、35歳超えた辺りからの勢いが、デビューするまでの16、17、18歳の頃の勢いに似てるんですよ。いろんな経験を積んできてるから、さすがにあの頃のように闇雲に調子に乗ってたりはしませんけど。当時は周りに“天狗”と思われてたみたいです(苦笑)。
ーーー14歳で曲作りを初めて、高校時代にバンドを組んで、卒業後にソロになってコンテストでグランプリを獲って19歳でデビューですからね。天狗になるのはしょうがないですよ(笑)。デビュー当時の前評判の高さも、当然のこととして受け止めていたわけですか。
そうでした。“俺が大森洋平だ!”くらいの気持ちでした。今振り返ると、いっぱいいっぱいだったんだろうな、と思うんですけどね。
ーーー今だから話せる、恥ずかしい天狗話を教えて下さい。
何かあるのかなあ。周りに対してはほぼタメ口でしたね。超先輩に対しても(苦笑)。それはよくない、と気づいて、26歳くらいの時にみんなに謝りました。その時に「お前がいきなり敬語になると気持ち悪い」って言ってくれた年上の仲間には、今でもタメ口です。
ーーー音楽に年齢は関係ない、実力次第だ、と思っていたのでしょうか。
それもあったと思います。あとは舐められちゃいかん、と(笑)。敬語だと下手に出てる感じになる気がしたんですよ。そんなことじゃないって今はわかるんだけど。多分、怖かったんだと思います。
ーーー自信はあったけど同じくらい自信がなかった?
デビュー前だから当然ですけど、本当の意味の実績はまだ何も残せてないわけじゃないですか。だから自信はあったけど筋の通った自信じゃなかったんでしょうね。でも強がっていた。
ーーー当時のライブ、来たお客さんに対しても“舐められちゃいかん!”だったんでしょうか。
みたいですね。歌詞を間違えて、明らかに客に怒ってるとしか思えなかったことがあったらしいし(苦笑)。感謝の気持ちも足りなかったんでしょうね。ありがたいと思っていたとは思うんですけどね~。ってあの頃の自分をフォローしてもしょうがないんですけど(笑)。
ーーー(笑)。
でも多分、「ちゃんと聴いてるのか」っていう気持ちのほうが、強かったと思います。HEAT WAVEとかエレファントカシマシとか、好きな先輩たちの超強気なライブを見ていた影響も大きいかな(苦笑)。いずれにしても、ため口だったり強気だったりした当時の俺の子供っぽさを、かわいい、と思ってくれた人だけが今でも仲間でいてくれてるんですけどね。
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沈み込みの始まり
ーーーデビュー当時の強気が影を潜め始めたのはいつ頃からですか。
22歳くらいかな。そういう強気なライブがカッコいいと思ってたけど、心がついてこなくなった。バランスがうまくとれなくなったんですね。
ーーー自信が失われていた、ということ?
今から思うと、そのころは完全に自信喪失でしたね。あと、多分、今でいうところの鬱だったし。
ーーー何がきっかけだったんでしょう?
1枚目のアルバム『20RPM』の時は、わけもわからないままロスに連れていかれて、ウエストコーストのすごいミュージシャンたちとレコーディングさせてもらったんですよ。当時はその人たちのすごさとかありがたみとか全然わかってませんでしたけどね(苦笑)。で、2枚目のアルバム『DAY』は「日本でやらしてくれ」って言って日本で録って、自分ではすごくよく出来たと思ったんです。曲ができるのも一番速かったし、歌詞も直ぐにできて、レコーディングもうまくいって、「ああ、思っていた通り、十代の自分の集大成の作品になった」なって。
ーーー『DAY』のリリースは98年5月。21歳の時です。自信作だったんですね。
そう。でもそれが、これはまあ俺の印象ですけど、レコード会社でも事務所でも、いいとも悪いとも何も言われなかった気がしたんですよ。その時に、「この作品で何とも言われないってことは、この先はないぞ、俺」って。さっき話したように24歳くらいまでのイメージしかないから、「もう時間がない、もうアウトかな」って。もちろんセールスも良くなかったし。そこから落ちました。
ーーーでも翌年には3枚目のアルバム『グライダー』を作ってますよ。
その時は、今度はレコーディングでロンドンに行かしてくれるって言われて、「まじで!? やったー」みたいな(笑)。
ーーー落ちていたとは思えない喜びようですが(笑)。
これで何か変わるんじゃないか、と。まあ、藁にもすがる、という感じですよね。でも、すげえ行きたかった街なのに、全然プラスに働かなかった。あっちで詞を書かなきゃいけなかったんですけど、それが超きつかったんですよ。見知らぬ街だし、しかも11月だったから天気は悪いし寒いし。地元の金沢にちょっと似てるんですけど、なんかぐーっと締め付けられるような感じで、「あの崖から跳びたい!」と思ったり(苦笑)。今思うと、笑っちゃうんですけどね。ミュージシャンもエンジニアも向こうの一流の人だったし、すごくラッキーでいい経験だったんだから、もっと楽しめばよかったのにな、と今になって思います。
ーーー『グライダー』がそんな状況で作られていたとは思いませんでした。
それでもちゃんとでき上がったし、今でも歌える曲が作れてますからね。それは本当にありがたいな、と思います。でも、帰って来てからの周りの反応に「これでもダメなのか俺は…」と。「もうお前、使えねえぞ」って自分で自分に言うような、十代とは真逆の感情になりましたね。
ーーー思考がいちいち自虐的になっていたんですね。
そんなに仕事はないのに、事務所から給料が出るからちゃんと飯も食えるし酒も飲める。ちょうど22歳くらいだから、同世代はみんな仕事をするようになっていて、早くに結婚した地元の友達には子どもが生まれたりしてたんですよね。今でもよくある話ですけど、「あいつらは汗水たらして家族を養ってるのに、俺はほとんど仕事もしないで毎日飲んでる」って考え出したらもう…。ある意味、お金をもらっているからこその不健全、みたいなスパイラルに、多分心が入っていったんですよね。そのうち、出かけようと思うんだけど家から出られなくなった。そういう時期が多分、2年くらい続いたと思います。
そういえば、『グライダー』が出たあとに一回、事務所の社長に鮨屋で「やめる」って言ったことがありましたね。その時に社長が「そんなこと言うな」って。あのひと言で本当に救われました。あの時に「ああ、そうか」って言われてたら、多分、今、音楽をやってないので。
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自分を責め続ける日々
ーーー家から出られないような時期がほぼ2年。それは長かったですね。
けっこう長くて、きつかった気がします。人に会うのも怖かったし…。ライブは決まっていたから、ステージに立つんだけど、全然楽しくなかったから、多分、全然よくなかったと思います。今なら、どんなに私生活で落ち込んでも、それなりのクオリティのライブに持っていけますけど、あの頃は、生きてることにも、歌うことにも、歌を作ることにも、全てにおいて自信が無かったから。
ーーーでも、歌は作っていたんですよね。
『スイレン』とかを作ってたのはその時期ですね。でも自分ではいい曲だとは思えなかったから、曲が作れている気がしなかったんですよ。
ーーデビューの頃は、どんなことを歌いたいと思っていたか教えて下さい。
漠然としてました。今は“このことを書いてみよう”って客観的に作れるようになった部分もあるけど、当時は、自分が感じたことを歌うことが全てだと思っていたので。俺、傷つかないと曲が作れなかったりするので、今でもわざと傷つきに行ったりするんですよ(笑)。
ーーーえ~~、今でも!?
そう。「17歳やないですか!」って友達にも言われます(笑)。でもデビューの頃はもっとそうでしたね。知り合いに、初期の頃の俺の詞は自己肯定だ、と言われたことがあるんですけど、確かにそうだな、と思います。自分が自分であるということ、要するに“I’m JUST ME”っていうことを、自分でも認めたいし、他の人には多分、もっと認めてもらいたかった。でもそれは違うぞ、と思い始めたのが、その時期だったんですよね。しかも自分を傷つける体力も、時間もあったから、歌詞を書きながら「違うぞ」っていうツッコミを他の人の目線でどんどん入れていくうちに、「もう何も言えないじゃないか、うわ~」って。そういう悪循環でした。
ーーーそれだけ自分を傷つけていたら、心にしみる言葉が出て来てそうなのに。
根本に自信がないから、自分の言葉が信用できなかったし、書いても書いても良く見えなかったんでしょうね。でも10年後くらいに使った歌詞はいっぱいあります。『坂の上の雲』の1番の歌詞は多分、その頃に書いてボツにしたやつ。たまたまあとから見た時に、「おお、めちゃめちゃいい詞やんか!」って。2番の歌詞も曲も、その場で、5分くらいで出てきましたね。
ーーーその苦しかった時期を、身近で支えてくれる人はいなかったんですか?ガールフレンドとか。
ガールフレンドは…、ロンドンから帰ってきてしばらくしたころに、どっかに行っちゃった気がします。
ーーーそばにいる人も辛かったんでしょうね。
だったと思います。すごく傷つけたとも思うし。今や超ドMですけど、25までは僕はドSだったので。
ーーーSからMに変わった時が、浮き上がりの始まりでしょうか。復活のきっかけは、なんでしたか?
『Replace』(2003年10月22日発売のミニアルバム)の曲作りを、2002年か2003年くらいからぼちぼち始めたんですよ。あれに入っている『PLACE』は、今でも行っている美容室の仲間たちがいたからできた曲です。みんな、俺の曲をすごく好きで聴いてくれていて、お店が終わってからパーティーでは必ず「歌ってくれよ」って。歌うとすごく喜んでくれるんですよ。そんなつもりはなかったかもしれないけど、そういうことで俺のアイデンティティがすごく守られた気がするし、救われてましたね。
ーーー洋平くんの歌を「いいね」とか「好きだよ」って言ってくれる人は、他にもたくさんいたと思うけど。
全部は聴こえてこなかったけど、確かにみんな言ってくれてた気がします。そう言ってもらえていたからこそ、いろんなことをやってみようという気にもなったし。例えば、生き直しをしようと思って、子どものころにあんまり連れて行ってもらっていなかった場所に行ってみたりとか。上野動物園に一人で行ったりしてたんですよ。
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ゆっくりと浮上
ーーー上野動物園、どうでした?
上野公園って、動物園にいる動物の悲哀をすごく見せてくれるところなんですよ。この間も九州の友達の息子を連れて行ったら、最初は盛り上がってたのに途中から「悲しいね、辛いよね」って(笑)。人生の縮図を見るようで、いろんな勉強にもなるんですよね。『キリン』は上野動物園の帰り道にできた曲でしたね。ちょうど雨の日で、見てきたばかりの檻に入っていたキリンの姿を思い出していたらなんだか悲しい気持ちになってきて、言葉とメロディーがワーッと降って来た。その時に、「この曲、歌いてえ!」って久々に思った。2年くらい「もういいや」という気持ちしかなかったのに…。ああ、思い出しました。あと、『グライダー』です。
ーーー2004年10月に発売したメジャー最後のシングルですね。映画『1リットルの涙』の挿入歌にもなった。
作っていたのは2002年とか2003年で、「これでもう辞めてもいいと思う曲を書こう」と思ったんです。「最後に、今、一番言いたいことを歌おう」って。そしたら、一気に書けたんですよね。その時に、「もうちょっと書けるかもしれない」っていう気持ちになったんだと思う。浮かび上がるきっかけは、結局、曲でしたね。あの2曲をライブで歌うようになってから、ライブも楽しくなってきたんですよ。昔の曲を歌っても、「いいこと言ってるじゃねえか!」と思えたり。ファーストの曲で歌ってたことがやっと消化できたんでしょうね。それがちょうどミニアルバム『Replace』を出せたころだったような気がします。
ーーー『Replace』のあと、2004年2月にもミニアルバム『déjà vu』をリリースしてます。
いろんなところで録ったアルバムですね、ストリートとか茅ヶ崎の海の近くとか。そういえばその時期、代官山で路上ライブをしてました。レコード会社や事務所に言われて。俺は聴こうと思ってない人に聞かせるのが嫌いだから、本当はいやだったんですけどね。
ーーーストリートでは歌ったことがあったんでしたっけ?
金沢時代に一回だけ。場所は自分で選んでいいって言われたから、代官山にしたんですよ。
ーーーなぜ代官山に?
ストリートミュージシャンがいなくて、音楽の流れていない街がいいなと思って。それだと生歌と生ギターでできるから。アンプをつなぐなら、ストリートじゃなくていいじゃないか、と思ってしまうので。怒られては場所を代え、転々としながら歌ってましたけど、聴きたくない人にとっては騒音でしかないのもわかるから、「誰も聴いてねえよな」って思いながら歌ってましたね。
ーーー恥ずかしさとかはないんですか。
あるけど、それは歌い始めちゃえば回避できるんですよ。歌うのは好きだし、歌ってるとその曲に入れるから。問題は合間、ですね。MCもそんなにできなかったから、曲間にすぐに冷静になって、落ち込んだりしてました(笑)。
ーーー誰も立ち止まってくれないことに、無力感を感じたりは?
そこは冷めてました。無視する人の気持ちのほうがわかるので、「そうだよね、ごめんね」って思ってました。
ーーーその経験は、何か役に立ちましたか。
どこでも歌えるよ、とは言えるようになりましたね。今でもたまに地方とかで遊びで「路上でやろう」って言われることがあるけど、頑に拒否したりはしなくなった。あと、ライブに行ったお店がどんな状況でも「大丈夫、できますよ」って言える。これがないからできないとか、言わないですよ。
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メジャーを離れて独り立ち
ーーー2005年3月にはメジャーを離れることになります。その現実は、どう受け止めていたんですか。
その前の年に、もうリリースはなさそうだな、とか、他に話は来てなさそうだな、とかいろんな空気を感じてはいたんですよ。だから、事務所の人と鮨屋に行った時に自分のほうから切り出して、「もういいですよ。10年間面倒見てもらってありがとうございました」って。ただメジャーを離れた2005年3月くらいから翌年3月くらいの記憶がないんですよ。
ーーー思い出したくないから記憶から抹殺しちゃったとか?
違う違う(笑)。日記もつけてたんですけど、それをアップしていた自分のホームページでいろんなシステムを試しているうちに、手違いでデータがなくしちゃったみたいです。今も探してるんですけどね。
ーーーじゃあ記憶を一緒に辿りましょう。落ち込んだりはしなかったですか。
意外と明るかったですよ、俺。音楽をやめる気は全然なかったから。逆に周りが心配してました。いろんな人から「洋平、音楽やめんよね?」って電話がかかって来たり。「いや、大丈夫っすよ、多分」って。すげえ安易に考えてたので(笑)。
ーーー安易に考えていた、というのは?
何とかなるだろう、と思ってたんです。その時はまだライブのギャラのシステムとかチラシとか作るのにどれだけお金がかかるかとか、何にも知らなかったんですよ。それにもともと物欲がなかったから、貯金も大分あったし。その後に都内で何度かライブをやるようになって、ギャラの安さにびっくりしました(笑)。これじゃあ食って行けねえな、と思いましたね。
ーーー精力的に地方に行き始めたのはいつ頃からですか。
2007年くらいかな。2005年の途中で、来年デビュー10周年だってことに気づいたんですよ。それで10周年をなんとか成功させねばいかん、という気持ちになったことが、すごく大きかったですね。10周年記念のライブアルバムを作ろうと思って、そのために必要な手配とか交渉とか、苦手なのに全部自分でやったりとか。今は得意なやつに任せてますけどね。
ーーーそれが2006年に出た初めてのライブ集『THE SONG』。
そうです。最後にはCDのプレス屋に行って、料金値切ったり、プレスする枚数を決めたり…。1,000枚プレスしたんですけど、CD1,000枚って、ホント、すごい量なんですよ。「これを東京だけで手売りするのは無理だ!」って言うのは直ぐにわかったので、もっともっと地方でライブをやろう、と。通販のシステムも直ぐに作りましたけどね。
ーーーそれでどうしたんですか。
全国のイベンターや仲間にも、電話とメールで連絡しました。その時におもしろかったのは、メジャー時代、一番仲がいいと思ってた人からは返信がなくて、どちらかというと苦手だった人が20分くらいで「やるよ」って返信くれたこと。そのころはもう明るくなってたので、返信なくても落ち込むこと無くずっと笑ってましたけど、人間とか人とのつながりってわからないものだなってことがよくわかった。今、スタッフになっている九州の仲間は、もともとはただのファンだったんですけど、おそるおそる電話して「無理だとは思うんですけど、九州でライブ回れたりしますかね」って言ったら、最後まで言い終わらないうちに「よかよ!」ってむしろ喜んでくれたくらいで。それで2007年に2週間くらいかけて、4人とかで車に乗って九州全県を細かく回ったんですけど、あの旅はいろんな意味で今につながってますね。いいライブばかりだったし、すごくおもしろかったし、歌って旅することが好きなんだな、とわかったし、歌を歌って生活していく自信も持てた。ああ、もう一回始まった、と思った旅でした。
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好転
ーーーメジャーを離れたのは28歳。翌年に10周年を迎え、30歳の時の九州ツアーで「もう一回始まった」と実感。その後はどうでしたか?
30代に入ってからはもう全然楽でした。お金はないけど、「楽しいね」って強がりでなく言えるようになった。それはコンスタントに歌で旅を回って、しかも、霞じゃなくてちゃんとごはん食べれて、そこにおかずもあるから(笑)。30歳になって一番変わったのは、一個一個を楽しめるようになったことですね。変なプライドがなくなって、後輩に対しても余裕を持って対応できるようになった。あと、10代の頃にライブやTVで見ていたバンドマンの先輩たちと、朝まで飲みに行ったり、音楽の話や女の話を普通にできるようになったのもすごく楽しくて。それで歌えてるんだから十分に幸せでしょうって。幸せを感じる心が、持てたんですよ。
ーーーとはいえ、その状況に100%満足していたわけではないのでしょう?
だけどまあ、本当に人に恵まれてると思いますね。メジャー時代の10年があったからこそですけど、どこに行っても知っている人たちがいるし、10数年ぶりの再会が今でもある。それに救われてますね。無所属なのに九州でタイアップがつく、なんてことが今、起こってたりするのも、俺のファーストアルバムを聴いてた人が時を経て今、相応の立場についてくれているからだし。そういうのがおもしろくてしょうがないです。
ーーー「福岡フィナンシャルグループ」さんですね。
そう。ちょっと話し戻りますけど、タイアップがついた時に思い出したのは、十代の頃の夢。あの頃は、大人が常識だ、と考えているものを凌駕したかったんですよね。だから、事務所もレコード会社もないのに、タイアップがついたっていうのは、なんかいい気分でしたよ(笑)。もちろん、いい曲書いて、楽しんでもらって、自信を持って音楽やってくのが基本ですけどね。30歳になった時に、そんなに真面目な動機で音楽始めたわけじゃないってことに気づいたのも、多分デカいですね。バカみたいに真面目に音楽をやろうとしてたけど、もともと不良で、道なんか踏み外してたんだから、無理してまともになんかなろうとしないでいいじゃんって。
ーーー“まとも”というのは?
多分、正しいと言われている、多数側です。30代半ばでちょっと大きな別れがあった時に、彼女に最後に言われた言葉も、俺の目を覚ましてくれましたね。相手がいることなので、具体的には言えないけれど、「俺は何をしてたんや!」と思わせてくれた。別れるのはきつかったけど、ありがたかったですね。ちょうどその頃、オカンに怒られたこともありましたよ。金沢にライブで帰った時に、冗談で「そろそろ、普通の仕事してみようか」って言ったら、「あんたに音楽以外の何ができるの!」ってけっこうマジギレされて「ごめんごめん、冗談です」って(笑)。
ーーーいい話ですね(笑)。
仲間にもそう言われます。あと、大きかったのは東日本大震災ですね。
ーーー2011年3月11日。洋平くんは34歳。
唄うたいがみんな言ってましたけど、俺も、音楽では誰も何も救えない、音楽には意味がないんじゃないかって思ったんですよ。旅の予定がけっこう決まっていたので、そのまま旅に行きましたけど、久々に重い気持ちでライブをやりました。友達が相馬にいたので4月に呼ばれて行ったりもして…。でも曲は1年間、書けなかった。それで原発再稼働反対の首相官邸前のデモに、一人で行ったりしてたんですよね。
ーーー何をきっかけに、再び曲が書けるようになったんですか。
南相馬に歌いに行った時に、避難する人と避難しない人が互いに傷つけ合ってたのがすごく悲しかったんですよ。飲み会でも、そうなるし。でも俺がばーんと歌って盛り上がったときだけは、みんなが仲良くなれたような気がしたんですよ。その時に、気休めかもしれないけれど、音楽がやれることはあるのかもしれないと思えた。それで『ガーデン』みたいな曲ができてきたりして…。その辺りからですね。あとスタッフをしてくれてる仲間が「そろそろアルバム作らないと」って背中も押してくれたし。
ーーーそれで2012年5月にアルバム『garden』を発表できたんですね。
震災は、本当に大きかったですね。“楽しむ”ことの意味を改めて教えられたし、精神的にすごく強くなるきっかけにもなったと思います。
ーーー当時はどんな思いで歌っていたんですか。
もう、瞬間瞬間です。だから、10 代の頃に似てるなって思うんですよね。あの頃と同じように、今、ここで燃え尽きて構わないという想いで歌っているから。それも、震災の後にどんどん気づいていったことですね。そもそも自分の生活がその日暮らしのようなものだし、だとしたら、今、自分にできることは、その日1日をちゃんと燃やすことなのかなって。
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現状についてのシビアな質問
ーーーシビアな質問をします。リリースやライブを順調に重ねてはいるけれど、広がりは限定的です。そのことは、どう受け止めているのでしょう?
自分の納得いく曲も書けているし、今はどんな人が自分の作品を買ってくれているかもわかっている…。旅とかライブでCDを手売りするようになってよかったのは、このお金で俺が食ってるんだってことが如実にわかったことですね。だから、ステージでは全て燃やすのは当たり前だし、その繰り返しで行けるっす。
ーーー気持ちがじりじりすることはないですか。
ないですね(きっぱり)。
ーーーそれはなぜ?
自信があるんです。勝てると思ってるし、最後に勝つのは俺だ! と思っているので。どんな大御所にも負けない、と失礼ながら本気で思っていたりもする。だからこれまでもぶれなかったし、今もぶれてない。仲間とやっている、今のこの新しいやり方でなにかを超えて行けたらいいな、と思います。
ーーー洋平くんにとって勝つってどういうことですか。
最後に生き残って、自分の歌を死ぬまで歌ってるっていうことじゃないですかね。どこで死ぬかわからないですけど。
ーーーそれでいいの?
売れる売れないっていうのは結果なので、もういいかな、と思ってます。それに音楽ビジネスは今、大きく体系が変わりつつあって、これからけっこう厳しい気がする。でも、わかりにくいかもしれないけど、いい音楽が生まれてくる時代に入ってきてると思ってます。その中で俺は、めっちゃメジャーな曲を書いていると思うんですけどね。俺、メジャーなやつよりメジャーな曲を書こうと思ってますから。だってポップなもの好きだし、みんなに喜んでもらいたいですから。
ーーーそしてもう一つ意地悪な質問。先日、見せてもらった下北沢のオムニバスのライブ、ステージドリンクがお酒だったような…。いつ頃からお酒を飲みながらライブをするようになったんですか。
毎回飲んでるわけじゃないですよ。ワンマンとか約束事があるライブは、素面です。でもバーとかでライブをやるときはお酒が出て来ちゃうし、他の人が「ライブ前なんで…」とか言って拒否る姿が、あまり好きくなかったんですよね。それは俺がある程度飲んでも歌えるからっていうのもあるんでしょうけどね。飲むとしゃべりもスムーズになるし(笑)。
ーーー歌もスムーズになる?
歌は、歌えます、ちゃんと。4杯以上飲むと喉が開き過ぎて声がコントロールできなくなりますけど、そうでなければ大丈夫です。もちろん泥酔して歌ったりはしないですよ。
ーーーそれはダメでしょう。お金、もらえないですよ。
近藤房之介さんや木村允揮さんみたいな人もいますけどね。でもまあ、おもしろいおっちゃんになりたいんですよ。で、音楽界がおもしろくなくなっているのは、真面目すぎるやつが多いからだと思うんです。練習ばっかりしてるような。だから「ステージ前なんで…」とか言ってるやつをみると、「何言うとんねん」と。年齢的にどんどん言えるようになってきているので、言ってしまってます(笑)。
ーーーでも練習は必要なのでは?
俺もやらなきゃいけないことはやりますけど、それは練習とは思ってないし…。ギタリストとかスキルが必要なやつらは練習も必要かも知れないけど、シンガーソングライターに必要なのは練習とは別のもののような気がするんですよ。恋もしてないのに、ラブソングは作れないし、歌えないでしょって思う。それはデビューの頃から思ってましたよ、言わなかったけど(笑)。練習で曲が書けるなら、みんな書いてるし…。でも才能って続けることなんだな、とわかりました。
ーーー努力、じゃなくて? 続けるためには、努力や頑張りも必要そうな気がするけど。
う~ん。どうですかね、それはわからないっす(笑)。
ーーー本当に頑張ってる人は頑張ることが当たり前だから、頑張ってるとか頑張ったと思わないんだと思う。
俺もすごい頑張ってた時があったと思うし、その後も頑張ってきたし、今だって頑張ってますけど…。最近、デビュー前に、星さん(作曲家、アレンジャー、プロデューサーでもある星勝さんのこと)の家に曲作りに行ってた時のことをよく思い出すんですよ。月曜から金曜まで毎日、終電で行って始発で帰るっていうのを1年くらい続けたのかな。「もう何も作れねえよ」って思うんだけど、それでも「作れ」っていわれて作る、みたいな。もう音楽が嫌いになりそうでした(笑)。あれは本当にきつかったし、二度とあの頃に戻りたくはないけど、でもあの時に学んだことは多分いっぱいあるし、今、振り返るとすごくおもしろかったし、ありがたい経験だったなと思いますね。
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これからのこと
ーーー今、どのくらい先までイメージできてますか。
自分の未来、としては来年くらいかな。そんなに先を見なくなりました。それも震災以降だと思うけど、遠い先のことより、大切なのは“今”で、目の前のことを一つ一つちゃんとやって行くことだなって思うから。今さら何かに魂を売ってレールに乗っかる気もないし、どっかのカンパニーに入りたいとも思わない。さっきも言ったように、今、一緒にやってる仲間たちと立ち上がって行くのが理想だし、今はそれができる時期になんじゃないかな、とも思うんですよね。それができたらこれまでお世話になった人たちへの一番の恩返しになるんだろうな、と思ったりします。
ーーー今、欲しいものは何ですか。足りてないものは何?
何かな。お金はないけど、物欲はないからそんなに困ってないし…。俺、好きな女の子にちゃんと振り向いてもらえて、歌が書けていれば、けっこう満足です(笑)。あんまうまくいってないですけどね、女の子のほうは(苦笑)。
ーーーシンプルで嬉しい答だけど、ちょっと物足りない気がします。
オカンにも怒られました。「もうちょっと何か欲しがって!」って。
ーーー同感です。満ち足りているのはいいことだけど、もっと何か望んで欲しい!
(笑)。切実なのは、ライブの動員ですね。今、自分なりにいい曲も書けているから、ライブの告知がもっとちゃんと伝わるといいんじゃないかな、と思うんですけどね。そこは改善していきたいですね。
ーーー今、歌を作る上でどんなことを大切にしていますか。
最近、主人公が自分じゃなくなってきたんですよね。でき上がった曲をあとから客観的に聴いた時に、大森洋平個人の視点とはちょっと違う角度で書いてるな、と思うことがよくあって。そこを「よかったです」って言われることもあるし。『光になりたい』とか『あなたを連れていく』の2曲は、俺の中にもある感情ですけど、旅を回っているなかで出会ったいろんな職業の人たちが、俺に教えてくれた感情でもあるんですよね。そういうふうに生きていられたら女の子を幸せにできたんだろうな、と思ったりとか(笑)。今はそういう曲が多い気がします。
ーーーそれはすごく大きな変化なのでは?
確かに、前だったら自分の視点じゃないことを書くのは抵抗があっただろうし、“矛盾してる”と思ったでしょうね。今は客観的に「コッチのほうがいいじゃん」とジャッジできるようになったし、歌っていても違和感なしに、自分のフィルターで歌えてる気がします。多分、自分がこうだ!って思うことを聴かせたい、というより、こう聴こえるほうがいいなあと思う願望のほうが強くなったんでしょうね。
ーーー自分じゃなくて、聴いてくれる人のために作りたいという気持ちになっているのかもしれないですね。
ちょっとおこがましいですけどね。あと、相変わらず詞を書くのに時間はかかるし、「誰か助けて~~」っていう切羽詰まった気持ちにはなるんですけど(笑)、「最後にはできる」って思える度合いが高くなりました。『あなたを連れていく』のときも、歌詞が書けないままスタジオに入って、このまま書けずに終わったらとんでもないことになるなあ、ってちょっと焦ってたんですけど、だんだんそのぎりぎり感がおもしろくなってきたんですよ。
ーーー眉間にしわが寄るんじゃなくて?
そうなんです。その状況を楽しめてる自分が、非常にいいなあと思いましたね。書けないからと無理矢理大人のフリをして取り繕ったりしても結局うまくいかないのはわかっているので。「すいません、才能が枯れ果てました」とか言って「またそんなこと言って、大森さん」とか冗談めかしつつ素の自分でやってるほうが、うまくいくみたいです。
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未来への力強い言葉
ーーー“唄うたい”と名乗るようになったのはいつ頃からですか。
2枚目のアルバムのころにも“唄うたい”と言ってましたけど、本当に、そう言えるようになったのは5年くらい前、33歳くらいからじゃないですかね。その頃に、さっきも言ましたけど、大事なやつと大事な歌さえあれば十分だ、というのが自分の幸せの価値観が明確になって、それでそう名乗れるようになったんだと思います。そしてその幸せの価値観が、震災を経て強固になった気がしますね。
ーーーいろんな人に大きな影響を与えた震災ですけど、洋平くんにとっても、本当に大きかったんですね。
そこから本当に明確になりましたね。外から被災地や福島を見ているだけだったら、多分、どんどん落ちていたと思うんですけど、動かなくなった街を見に行って、その帰りにそこで歌ったり、直接関われたんですよ。しかも彼らが元気なんですよね。もちろん、落ちることたくさんあるだろうけど、元気でいるしかない、というか…。彼らと一緒に過ごして感じることが、本当にたくさんありました。今、この瞬間しか伝えることができないし、今、一緒にいるその瞬間に勝るものはない、と前から思ってたけど、それがどんどん強固になりましたね。それが2014年8月の段階での自分の生きる意味であり、歌うことの意味にも直結してます。
ーーー“今が大事だ”というのを、聴いてる人にも伝えたい?
ただ、押しつけたくはないんですよ。最近は特にそう思ってますね。今は、人の命より経済のほうが大事なのかな、と錯覚しそうな流れもあって、そっちに流れている人もたくさんいる。でも僕はその流れに乗る気は全然ないし、乗りたくない。もし音楽にできることがあるとすれば、本当に大切なものは何か、本当に幸せなものは何かを、伝えることなんじゃないかと思う。結局、ジョン・レノンの『イマジン』至上主義なんですよ、俺は(苦笑)。あれは天国も地獄も、国も宗教も所有できるものも、何もかもないと考えればみんな幸せになれるはずだ、と歌っている。理想かもしれないけど俺はすごく共感するし、俺たちみたいな職業のやつらくらいは、どんなにきれいごとだと言われようとも、そういうシンプルな価値観を掲げてないとなって思うんですよね。そして音楽には、みんながいつでも戻れる場所でいる、という役割があるんじゃないかな、と。それは多分、俺にとっては売れることよりも大事なんです。子どもたちはもちろんだけど、大人もちゃんと夢を見れたり、そこで傷ついても心を取り戻せる場所を作ることが、俺が音楽でやりたいことですね。<完>
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